五行大義(170)
私も「学びの途中」であることをご理解いただければと思います。したがって誤った理解もあるかもしれません。その際にはご指摘いただければと思います。また、内容については適宜集成・追加させていただきます。
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雑配を論ず
第五、五常に配するを論ず
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思うに、毛公、京房、『漢書』天文志において、すべて土を信としているのは、正しい説であるというべきであろう。その理由は、五常の意義を考えてみれば、仁は、惻隠(あわれみいたむこと)を本体とし、博施(ひろくほどこす)をその働きとしている。礼は、分別(けじめをつけること)を本体とし、践法(正しい道を実践すること)をその働きとしている。智は、了智(さとり知ること)を本体とし、明叡(道理に明らかで聡明なこと)をその働きとしている。義は、合義(道理に合うこと)を本体とし、裁断(是非善悪を裁くこと)をその働きとしている。信は、欺かないことを本体とし、附実(誠実であろうとすること)をその働きとしている。
五行との関係では、木には、覆い繁るという性質があり、これは仁の本体とその働きである惻隠博施と同じである。火には、暗さを滅して明るく照らすという性質があり、これは礼の本体とその働きである分別践法と同じである。水には、潤いを含んで流通するという性質があり、これは智の本体とその働きである了智明叡と同じである。金には、堅く剛く、刃のように鋭利であるという性質があり、これは義の本体とその働きである合宜裁断と同じである。土には、たもちのせ、含み入れるという性質があり、時に応じてあらゆる物を生み出すのであり、これは信の本体とその働きである附実不欺と同じである。
鄭玄や『詩緯』の説では、土を智に当てているが、それは、あらゆることを悟るということについて、智に勝るものはなく、あらゆる物を生ずるということについて、土に勝るものはないからである。水を信に当てているのは、水には潮の干満があり、時に応じて満ちたり干いたりしているからである。この説明は、道理にかなっているとは言えず、証拠も不十分であり、智や信の理に背いている。
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雑配を論ず
第五、五常に配するを論ず
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思うに、毛公、京房、『漢書』天文志において、すべて土を信としているのは、正しい説であるというべきであろう。その理由は、五常の意義を考えてみれば、仁は、惻隠(あわれみいたむこと)を本体とし、博施(ひろくほどこす)をその働きとしている。礼は、分別(けじめをつけること)を本体とし、践法(正しい道を実践すること)をその働きとしている。智は、了智(さとり知ること)を本体とし、明叡(道理に明らかで聡明なこと)をその働きとしている。義は、合義(道理に合うこと)を本体とし、裁断(是非善悪を裁くこと)をその働きとしている。信は、欺かないことを本体とし、附実(誠実であろうとすること)をその働きとしている。
五行との関係では、木には、覆い繁るという性質があり、これは仁の本体とその働きである惻隠博施と同じである。火には、暗さを滅して明るく照らすという性質があり、これは礼の本体とその働きである分別践法と同じである。水には、潤いを含んで流通するという性質があり、これは智の本体とその働きである了智明叡と同じである。金には、堅く剛く、刃のように鋭利であるという性質があり、これは義の本体とその働きである合宜裁断と同じである。土には、たもちのせ、含み入れるという性質があり、時に応じてあらゆる物を生み出すのであり、これは信の本体とその働きである附実不欺と同じである。
鄭玄や『詩緯』の説では、土を智に当てているが、それは、あらゆることを悟るということについて、智に勝るものはなく、あらゆる物を生ずるということについて、土に勝るものはないからである。水を信に当てているのは、水には潮の干満があり、時に応じて満ちたり干いたりしているからである。この説明は、道理にかなっているとは言えず、証拠も不十分であり、智や信の理に背いている。